生前に親交のあった方々から先生への、お別れのメッセージです。ゼミ生からのメッセージはこちらです。

最初の出会いは1978年。出版部で『アメリカ性革命報告』を担当した。お互い30代のこのとき、立花さんは必要最小限の受け答えに終始し、私に話しかけてくることは皆無に近かった。なつかないドラ猫みたいだ、俺は嫌われてるのかなと思った。立花さんを「怖い」とか「不愛想」とか言う編集者もいるが、経験上、そんな印象を与える面があることは確かだ。しかしその先に、実はちっとも怖くなく不愛想でもない、ものすごくチャーミングな立花隆がいたのだった。

10年経過した1988年(猫ビル竣工の4年前になる)、月刊誌で利根川進さん(ノーベル賞)へのインタビュー連載(『精神と物質』)を担当。文春ビル9階大会議室に膨大な資料を持ち込み、締め切り前1週間ほどは缶詰になってもらった。親しくなれたのはこのときからである。

連載初期の某日、締切が近づいたので立花さんに電話した。「文春の平尾です」。名乗ったとたん、無言のままガチャンと電話を切られた。え? 何なんだ? 頭にきた私は即、かけ直し「立花さん、失礼じゃないですか。用があるから電話してるんですよ」と抗議した。すると寝ぼけたような声で「あ、ああ、あーん」という返事。「用件はこれこれ、それにこれこれも忘れないでください」と伝えると、そのたびに「はいっ」「はいっ」と、とつぜん素直な返事が返ってくる。 私は可笑しくてたまらず、そうか、これが立花さんなんだ、と分かった気がした。何かに夢中になると、他のことはいっさい目に入らない。用件が何か、相手が誰かは関係ないのである。その集中力が、一晩で40枚(400字)以上の原稿を書かせるわけで、自分の前にいるのは愛すべき天才ではないか。そういえば、一見エラそうにしているようで、本人は決して威張らないぞ。インタビュー相手への謙虚な姿勢と勉強ぶりは尊敬に値するぞ。立花さんのことが好きになり、以来、知れば知るほど 大好きになった。列挙するのは控えるが、数多の仕事をお願いし、無理かなと思っても引き受けてくれた。教えられたことやエピソードは数えきれず、感謝の気持ちしか見当たらない。

彼は戦後最大のジャーナリストだった。1992年から続いた「読書日記」を通読すれば、そのことがよく分かる。理系文系を往還し、政治経済も宗教や歴史も、下ネタまでを含めて、いかに「知の世界の全体像」に好奇心を燃やし続けたことだろう。

立花さんは自ら「知識欲中毒」(知識中毒ではない)だと言っていた。東大ゼミを始めたころ、「俺は元々勉強が好きだったけど、東大で教えるようになったいま、人生でいちばん勉強してるんじゃないかなぁ」とも言っていた。若い人たちに優しかった立花さん。教え子によるこの追悼サイトは、何よりの手向けではないかと思う。

平尾 隆弘

立花さんと私の両親は長年の友人だった。そんなわけで、幼い時から私は彼を「たちばなおじさん」と呼んでいた。小学校低学年の頃のある日、彼は私を神保町の本屋に連れて行ってくれた。そこで買ってくれたのが、子供用の「妖怪図鑑」。私はページが擦り切れる程夢中でその本を読み込んだものだ。そのせいか、ジャーナリストとなった今でも、この世ならざるものへの興味が尽きない。

たちばなおじさん、最後に一献交えたのは数年前になりますね。いつか酒席にあの世からふらっと登場してくれないかと楽しみにしています。

アレックス K.T. マーティン

立花さんの好奇心というか探求心は「時」を選ばずで、知りたいことがあれば即電話をかけるという悪い癖がありました。今でも立花さんから夜中に「ちょっとさあ、、北朝鮮とキューバの関係はどうなっているの」などというとんでもない電話がかかってこない方が不思議な気がします。

スタンフォード大学の宿舎に住んでいた時も、立花さん家族が訪ねてきてくれました。彼は何故かどうしてもリンカーン・コンチネンタルを運転するんだと言い張り、あの図体の大きい車を借りてはカリフォルニアを走っていました。今あの場面を思い出すとちょっと笑えます。 

ふり返れば、立花さんとは半世紀近く、およそ「知」とは程遠い付き合いをしてきたように思います。私にとって彼は、かけがえのない良き友人でした。

高山 秀子